ツムの上下動はいつまでも(トレリド・ワンライ大遅刻参加作品)

2026年6月6日 お題「無垢」
 間違ったフロアに出てしまった、とすぐにわかった。ビビッドな原色の床に、たくさんのゲーム。大人が五、六人手を繋いだほどの線路しかない小さな汽車。キャラクターの内側が空洞になったような乗り物。デフォルメされた車。たくさんの音が入り混じってぼやけている。闇が差している、と思ったのは、フロアの半分ほどを占めるボールプールや柔らかい遊具があるエリアの電灯が落とされているからだ。有料らしいそこはもう営業終了しているらしく、係員の姿もない。フロアには誰もいない。
『あのデパートはレストラン街が新館の方にあるんだ。間違えるのも無理ないよ』
 待ち合わせ場所を間違えた、とメッセージを送ると、トレイからはすぐに返信があった。
『待たせて悪いんだが、仕事が終わるまでもう少しかかりそうなんだ。ラストオーダーまでには間に合わせるから、先にレストランに入っていてくれ』
 お互い大変だね、お疲れ様。と返信して、エスカレーターを降ろうとフロアを横切る。連絡通路のあるフロアまで早く降りなければ。——その前に、一息つきたいと思った。自分だって仕事を終えて急いで駆けつけたのだ。平日夜の大人のデートとは真逆の光景が広がっていてなんだか気が抜けてしまった。フロアの隅にあるカップ式の自販機まで、ふらふらと歩いていく。それならレストランで何かお茶でも頼めばいいのに。何かこの空間全体が、リドルを惹きつけて離さなかった。どこか古ぼけた自販機も、その一つだった。
 自販機の横のベンチに腰掛けて、全体を見回す。リドルはこんな空間には来たことがない。だから、「普通」どうなのかなんてことは言いようがない。それでも、この空間全体がとても古いものだということはわかった。老舗のデパートらしくよく磨かれてはいるが耐えきれないヒビが入ったタイル。色の組み合わせも、ゲームの筐体の書体も、キャラクターのデザインも、洗練されていない。ずっと来ない誰かを待っているような愛嬌と寂しさがある。クレーンゲームに入っているぬいぐるみやおもちゃだけがリドルもケイトに教えてもらって知っているような「今」のキャラクターで、かろうじてここがいつなのかを表していた。リドルはこんなもの知らない。なのになぜだろう。
(なつかしい、だなんて。馬鹿げている)
 その時、もう一つ知っているものを見つけた。それは自販機のすぐ近く、フロア全体で見れば隅の方にあった。繭のような楕円形に、つぶらな目鼻。口は省略されている。いつか学園に降ってきた、あの不思議な生き物によく似ていた。薔薇の王国でも老舗の玩具メーカーにも、ツムは現れたのだろうか。それに、王冠を戴いた黒髪と襟の大きなドレスは。
「……ハートの女王?」
 思わず笑みがこぼれる。リドルは野生の獣にそうするようにそっと近づいた。ツヤツヤとした硬い表面を撫でてみる。背中には座面とハンドルがあって、どうも子どもを乗せてコインを入れると動くらしかった。手の中には自販機に入れようと思っていたコインが、丁度ある。だからといって——
「リドルなら乗れるんじゃないか?」
「ここに『30kgまで』と書いてあるだろう。……トレイ、ボクのことを小麦粉袋くらいの重さしかないと思っておいでかい?」
 思ったより早く上がれたんだ、とトレイは笑った。驚かせようと思ったのに、というその笑みは子どもの頃と変わっていなかった。でもきっとリドルと出会った時、きっともうこの空間は彼にとって幼稚だっただろう。それでも、それよりも小さな彼とこんな空間で遊べたらよかったのに、そういう思い出にすらならないような思い出も欲しかったと、思ってしまった。経験したことがないからこそ、きっとなつかしく焦がれるのだ。そんな無垢な思い出が自分にもあればよかったと、思ってしまうから。空っぽの空間に、自分たちを投影してしまうから。
「お腹空いてるよな。もう行こうか」
「そうだね。——ああ、ごめん、その前に少しいいかな」
 コインを投入口に滑り込ませる。トレイは不思議そうな顔をしたが、「お前ほど純粋なやつを俺は知らないよ」とすぐに目を細めた。クラシックを無理に子供らしくアレンジしたような音楽が流れる。ハートの女王のツムは存外激しく揺れた。きっと子どもからすれば物足りない時間が終わると、一枚のカードが排出される。『夜8時すぎに蜂蜜入りのレモネードを飲んではならない』と書かれていた。
「256条だね」
「レモンハイやリモンチェッロは該当しないよな?」
「明日は平日だよ。それにキミは弱いんだから」
 エスカレーターを降る前に、リドルは一度だけ振り返った。ハートの女王のツムの背で、小さな小さなリドルとトレイと、チェーニャが笑っているような気がした。